醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

D:更新のお知らせ-小説を書きました

白濁(六十七・最終回)

いやだ、という言うことさえ、ずっと忘れていた。そんなふうに言う選択肢はなかったから。 一度拒否したら、それで終わってしまうと思っていた。私にはなんの価値もない、ただその体に喜んでくれているのなら、それでどうにか引き留めて置こうと思っていた。

白濁(六十六)

裏駅のカレー屋に入った。お昼時なのに、奇跡的にカウンター席が一人分だけ空いていた。お店で一番辛いエスニックカリーを頼む。その辛さが、自分のまわりをぼんやりと囲む濁った繭を破いてくれるのを期待して。 今更、涙が出てきた。何の涙? よくわからな…

白濁(六十五)

「いざ離婚届ちゃんと出したら、すっげー気が抜けちゃって。さっさとけりつけてすっきりしたいって思ってたの、俺のほうなのにさ。バカみたいね」 鼻をすすりながら高橋は笑った。

白濁(六十四)

「もういいの? 江ノ電とか、大仏とかは?」 「うん、もう充分」 あんまりあっけなかったので訊いてしまった。高橋と並んで歩くのが心地よくなってきていた。誰かと何の目的もなくただ一緒に歩くのはどのくらいぶりだろう。坂井とは部屋で会うだけになってい…

白濁(六十三)

「あ!」 信号を待つ人たちが指さし歓声を上げる。鳥居に並んだ白い鳩の群れが一斉に飛び立ったのだ。拍手している人までいる。 ざわざわと粒のように連なる白い群れ。そのすがすがしさとは裏腹に、私は喉の奥に引っかかる苦みを思い起こしていた。幾億もの…

白濁(六十二)

「昼間の町を一緒に歩いて欲しいんだ。なんでもなく、普通に」 「それだけ?」 「それだけ」 高橋は自分のシャツの袖をつまんで言った。 「あ、でも俺、なんか汚れてる?」

白濁(六十一)

高橋を畳に転がしたまま、私はソファーで毛布を被って寝た。 翌朝、青白い顔で目覚めた高橋に水の入ったグラスを手渡す。高橋は喉を鳴らしてひと息に飲み干した。

白濁(六十)

ポケットの中で携帯が震えていた。タケシさんからだ。どうにか高橋の靴を脱がせ、畳の上に横たわらせて、かけ直す。電話に出たタケシさんは、 「大丈夫? お腹」 と言った。マスターが適当に嘘をついておいてくれたんだろう。

白濁(五十九)

タケシさんはなかなか帰って来なかった。 「ちょっと、見てきます」 と私が言うと、 「ああ、いっといで。タケシさんにはうまく言っとくから」 とマスターはぶっきらぼうに言った。

白濁(五十八)

「行こう」 グラスを空にすると、タケシさんは私の背中に手を添えた。 「ごちそうさま」 店主に声を掛けて店を出る。縄のれんも看板も、もう仕舞われていた。 軋む階段を降りる。かつら小路の入り口で、地べたにへたり込んでいる人影があった。男だ。顎に届…

白濁(五十七)

店を出て、恐る恐る周りを見渡す。 当然、坂井の姿は無い。 ほっとするのと同時に、胸が詰まる。胸が詰まるのと同時に、なんとも言えない解放感がある。 よくもまあ、今までずるずると続けてこられたのだろう。吸ったことはないけれど、煙草みたいなものなん…

白濁(五十六)

「じゃあ俺、行くわ」 坂井は言った。いつもより大きく見開かれた目、無理やりあざ笑うようにに歪められた口。 「俺、あんたにずっと隠してたこと、あるんだわ」 そう言って短く引き笑いをした。

白濁(五十五)

きっと、お互いに表面しか見えていなかったんだ。外見だとか、体だとか。それでもずっと恋していた。 私は、別れる今になって、ようやく自分の内側を坂井の前にさらけ出しているのかもしれない。

白濁(五十四)

「俺が仕事をしている間に、あんたはその男とよろしくやってたってわけだ」 久しぶり、とかいう挨拶もなく。昼下がりのカフェにはまったく不似合いな話題だ。隣の席に座っていたサラリーマン風の男が、ぎょっとして坂井の顔を見た。気まずそうにカップを口に…

白濁(五十三)

「そう。だから、もう家では会いたくない」 「あんた、ほんと最低なやつだな」 付き合ってから今までで、一番早く戻って来た坂井のメールだった。皮肉なことに。

白濁(五十二)

「結衣ちゃん、ほんとうにタケシさんと付き合ってるんだね」 カウンターで隣合わせたアカリさんが、煙草をくゆらせながら言った。いつものように夏の雪を呑んでいた。 私はなんて答えたらいいかわからなくて黙っていた。待ち合わせをしているタケシさんは、…

白濁(五十一)

「三日間休みを取ったから、最後にその間だけ全部、俺のものでいて欲しい。君が作った料理を食べて、どこにも出掛けずにずっと君の部屋にいたい」 最後に話をする日程をメールで相談したら、坂井からはそんな返事が送られてきた。職場の昼休み、学食のテーブ…

白濁(五十)

坂井に電話をかけた。 短い呼び出し音の後、かすれた声で坂井が「はい」と言った。 「大丈夫?」 と私が訊くのも変だし、大丈夫では全くなさそうだけれど、そうとしか言えなかった。 「うーん」 と坂井は、低く唸るように言った。

白濁(四十九)

美里を終電間際の電車で見送り、携帯電話の設定は諦めてそのままぱったりと寝た。翌日、パソコンを開いたら、パソコンでしか使わない方のアドレスに坂井から長いメールが二通も届いていた。

白濁(四十八)

「でもさ、長かったよね。何年?」 哀れむでもなく美里は言った。 「七年」 「なんで結婚しないのかなって思ってた」 「しないよ」 別に、子ども産みたいわけでもないし、とは、母親になって間もない美里には言えない。

白濁(四十七)

「――なんだけど、どう思う?」 「あ、え? ごめん、なんだっっけ」 もともと美里のマシンガントークにはあんまりついていけなかったのだけれど、相づちくらいはちょうどよく打てるつもりでいたのに、今日ばかりは全然話の内容が頭に入ってこない。まだほとん…

白濁(四十六)

思った通り、美里は先に店についていた。会うたびに、ひとまわりずつ丸く、大きくなっている。濃いアイメイクだけは学生時代とかわらない。 「結衣の好きそうな店だね。なんかすごく変」 と美里は言った。混み合った店内に対して、マンションのちょっと広め…

白濁(四十五)

携帯を解約した。電話番号だけ残して、キャリアも変えてメールアドレスも替えた。坂井からのメールが大量に保存されている携帯電話を持ち歩きたくなかったから。素っ気ない要件だけのメールの合間に、まれにだけれど坂井の本音がほろっと書き込まれたものも…

白濁(四十四)

「来週行く」「早く顔が見たい」 坂井から短いメールが届いていた。 ずっとほったらかしだったのに、こんなときにだけ何度も連絡してくる。 もう一度坂井に会うのは恐怖だった。はぐらかし続けてもいられない。 「ごめんなさい」「他に好きな人ができた」 同…

白濁(四十三)

毎日のように、どこかの飲み屋で待ち合わせては、わざと店を出る時間をずらし、終電まで私の部屋で性急に体を重ねて帰る。タケシさんは、いろんな店で「最近よく会うね」と常連たちに言われている。

白濁(四十二)

レスになっていたとしても、夫に不倫相手が出来ると夫婦の営みも復活するんだって聞いたことがある。旦那の何かが活性化されるのか、それに妻も触発されるのか。うっかり「やっぱりお前が一番だ」なんて睦言を吐いた日には目も当てられない。 「妻とはもうず…

白濁(四十一)

暗い夜の中に部屋の壁も窓も何もかも、境目という境目は全部消え去って、夜空の星が頭上にも体の下にも広がっている。そのなかにタケシさんの体の形をした熱があって、私の体の片面はその熱を感じ続けたまま、果てしない夜のなかに浮いているのだ。 そんなふ…

白濁(四十)

「いい部屋だね」 そう言うタケシさんは六畳のアパートには全然似合わない。一人暮らしを始めた娘の家に遊びに来たお父さんみたいだ。そのシャツの、ぽってりと出たビール腹ならぬホッピー腹に触れてみる。タケシさんはあごをひいて私を見下ろした。男性とし…

白濁(三十九)

誰かと並んで歩きたいと思っていた。なんでもない、くだらないことばかりをずっとしゃべって。どこに行こうとか、そういう行き先もあんまり決めずに。ただ隣にいるから、それでいいと。そういう相手が欲しかった。 もはや男性じゃなくてもいいのかもしれない…

白濁(三十八)

鮪の血合スモーク、自家製豆腐、ポテトサラダ、自家製塩辛……ポテトサラダを注文した。薄く切った、皮付きのリンゴが入っているやつ。それが嫌いという人もいるけれど、ポテトの中でときどきシャキシャキとする、その食感が私は好きだ。 「おねえさん、ほんと…