醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明(@mianohara)

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

こんな小説を書いています

白濁(五十二)

「結衣ちゃん、ほんとうにタケシさんと付き合ってるんだね」 カウンターで隣合わせたアカリさんが、煙草をくゆらせながら言った。いつものように夏の雪を呑んでいた。 私はなんて答えたらいいかわからなくて黙っていた。待ち合わせをしているタケシさんは、…

白濁(五十一)

「三日間休みを取ったから、最後にその間だけ全部、俺のものでいて欲しい。君が作った料理を食べて、どこにも出掛けずにずっと君の部屋にいたい」 最後に話をする日程をメールで相談したら、坂井からはそんな返事が送られてきた。職場の昼休み、学食のテーブ…

白濁(五十)

坂井に電話をかけた。 短い呼び出し音の後、かすれた声で坂井が「はい」と言った。 「大丈夫?」 と私が訊くのも変だし、大丈夫では全くなさそうだけれど、そうとしか言えなかった。 「うーん」 と坂井は、低く唸るように言った。

白濁(四十九)

美里を終電間際の電車で見送り、携帯電話の設定は諦めてそのままぱったりと寝た。翌日、パソコンを開いたら、パソコンでしか使わない方のアドレスに坂井から長いメールが二通も届いていた。

白濁(四十八)

「でもさ、長かったよね。何年?」 哀れむでもなく美里は言った。 「七年」 「なんで結婚しないのかなって思ってた」 「しないよ」 別に、子ども産みたいわけでもないし、とは、母親になって間もない美里には言えない。

白濁(四十七)

「――なんだけど、どう思う?」 「あ、え? ごめん、なんだっっけ」 もともと美里のマシンガントークにはあんまりついていけなかったのだけれど、相づちくらいはちょうどよく打てるつもりでいたのに、今日ばかりは全然話の内容が頭に入ってこない。まだほとん…

白濁(四十六)

思った通り、美里は先に店についていた。会うたびに、ひとまわりずつ丸く、大きくなっている。濃いアイメイクだけは学生時代とかわらない。 「結衣の好きそうな店だね。なんかすごく変」 と美里は言った。混み合った店内に対して、マンションのちょっと広め…

白濁(四十五)

携帯を解約した。電話番号だけ残して、キャリアも変えてメールアドレスも替えた。坂井からのメールが大量に保存されている携帯電話を持ち歩きたくなかったから。素っ気ない要件だけのメールの合間に、まれにだけれど坂井の本音がほろっと書き込まれたものも…

白濁(四十四)

「来週行く」「早く顔が見たい」 坂井から短いメールが届いていた。 ずっとほったらかしだったのに、こんなときにだけ何度も連絡してくる。 もう一度坂井に会うのは恐怖だった。はぐらかし続けてもいられない。 「ごめんなさい」「他に好きな人ができた」 同…

白濁(四十三)

毎日のように、どこかの飲み屋で待ち合わせては、わざと店を出る時間をずらし、終電まで私の部屋で性急に体を重ねて帰る。タケシさんは、いろんな店で「最近よく会うね」と常連たちに言われている。

白濁(四十二)

レスになっていたとしても、夫に不倫相手が出来ると夫婦の営みも復活するんだって聞いたことがある。旦那の何かが活性化されるのか、それに妻も触発されるのか。うっかり「やっぱりお前が一番だ」なんて睦言を吐いた日には目も当てられない。 「妻とはもうず…

白濁(四十一)

暗い夜の中に部屋の壁も窓も何もかも、境目という境目は全部消え去って、夜空の星が頭上にも体の下にも広がっている。そのなかにタケシさんの体の形をした熱があって、私の体の片面はその熱を感じ続けたまま、果てしない夜のなかに浮いているのだ。 そんなふ…

白濁(四十)

「いい部屋だね」 そう言うタケシさんは六畳のアパートには全然似合わない。一人暮らしを始めた娘の家に遊びに来たお父さんみたいだ。そのシャツの、ぽってりと出たビール腹ならぬホッピー腹に触れてみる。タケシさんはあごをひいて私を見下ろした。男性とし…

白濁(三十九)

誰かと並んで歩きたいと思っていた。なんでもない、くだらないことばかりをずっとしゃべって。どこに行こうとか、そういう行き先もあんまり決めずに。ただ隣にいるから、それでいいと。そういう相手が欲しかった。 もはや男性じゃなくてもいいのかもしれない…

白濁(三十八)

鮪の血合スモーク、自家製豆腐、ポテトサラダ、自家製塩辛……ポテトサラダを注文した。薄く切った、皮付きのリンゴが入っているやつ。それが嫌いという人もいるけれど、ポテトの中でときどきシャキシャキとする、その食感が私は好きだ。 「おねえさん、ほんと…

白濁(三十七)

「キンミヤ、赤玉ポートワイン、マッコリ」 「だろ? ちょっとおねえさん、省略して言ってごらんよ」 「えーと? キン……、え、やだあ」 「だからさあ、ちょっとあんまりだから、『夏の雪』って名前が付いたってわけよ」 男はアロハの背中を得意げに反らして…

白濁(三十六)

触れ合ったところから感じる体温に、体の表面が溶けて滲み出ていきそうな気がした。 それは、タケシさんに? それとも見知らぬ隣の男に? もうどっちだっていい気がした。 カウンターの奥で、アカリさんと呼ばれた女が身を乗り出す。 「マスター、アタシ『夏…

白濁(三十五)

「あっ。えっと、日本酒を……常温で」 「あいよ」 もっきりで出てきたグラスには、受け皿からもこぼれそうなくらいなみなみと酒が注がれていた。 「さっきも日本酒、結構呑んでましたよね? 知りませんよ、また倒れても」 タケシさんが言った。 「いいんです…

白濁(三十四)

家に帰る。 レジ袋の中から六本入りの缶ビールを取り出して、冷蔵庫の隙間に無理やり詰め込む。一本はそのまま、プルタブを開けた。台所の床にへたり込んだまま、ぬるいビールを喉に流す。 ふと、携帯を手に取る。 わかってはいたけれど、坂井からのメールは…

白濁(三十三)

さあ、あとは簡単だ。 何軒かハシゴを重ねて、最後に私の部屋へ行けばいい。 高橋とそうしたみたいに。 誰かに触れたくて仕方なかった。誰かの肩にしがみつきたい。こんな私の体にも、需要があるのだと教えて欲しい。

白濁(三十二)

タケシさんのつかんだグラスの中で氷が溶けて、カラン、と鳴った。 「誰か待ってるような顔して、ちょっと上見上げて、そのくせ次から次にがんがん呑んで。そのうち倒れるんじゃないかと思ったら本当に倒れるから、『しめた!』って」 「うわあ、最低」 鼻に…

白濁(三十一)

ほんの数軒となりなのに、いつも行く店とはまったく顔ぶれが違っていた。椅子のあるせいか、こちらは年配客が多い。呑みに来た、というよりは、夕飯を外に食べに来た、お年寄りのお一人様が目立った。バラエティを流しているテレビばかりがにぎやかだ。 「タ…

白濁(三十)

肩に手を置いてきたのは、タケシと呼ばれていた男だった。日曜なのに今日もスラックスをはいて、ネクタイまできっちり締めていた。 「それじゃ」 高橋はそう言うと、こちらの顔は見ずに軽く手を上げ、駅の方へ歩いて行った。 「もう酒、見たくなくなった? …

白濁(二十九)

あれから恥ずかしくて呑みに行けていないのだけれど、東急で買い物をするとどうしても店の前を通ってしまう。 日曜日。日暮れの早くなった商店街の煙草屋の前で一服しているのは高橋だった。私は買い物袋を下げて家に帰るところだった。 目が合ってしまう。

白濁(二十八)

そのまま押し入られたらどうしよう、と思っていた。男は背後に立っている。 おそるおそる振り向く。ちょうど外灯の逆光になり、男の表情はよく見えない。 「……ありがとうございました」 「こんなところにアパートがあったんですね。古い一軒家ばかりだと思っ…

白濁(二十七)

「それじゃあ、立てますか?」 「いえ、ほんとにいいんです。自分で帰れますから」 「もうタクシー呼んでますから」 男は私の腕を取って、自分の肩にひっかけた。 「立ちますよ。せえーのっ」 「あっ」 思ったより自分の足元はおぼつかなかった。 「ほんとう…

白濁(二十六)

「大丈夫ですか。救急車、呼びます?」 カウンターに肘をついて、なんとか立っていたつもりだったけれど、気がつけば外の通路に寝かされていた。目の前に、瓶ビールの黄色いケースが転がっていた。その横に、少し埃を被った革靴。グレーのスラックスの裾。 …

白濁(二十五)

高橋修二からは、あれから一度も連絡はなかった。私からもメッセージをすることはない。ときどき、平凡な投稿がFacebookのタイムラインに流れてくる。ラーメンを食べただとか、娘を連れて海に行っただとか。 思い出したようにお互いの投稿に「いいね」ボタン…

白濁(二十四)

「愛し合う」だなんて言うけれど、そんなふうに感じたことは一度もない。 その手に触れられているとき、私は自分の体をただの物体のように思う。セックスドールと変わらない、女の体の形をした玩具。

白濁(二十三)

「さんざん親にわがまま言ってきたし、そろそろお母さんの期待にこたえなきゃなって。 美里はそんなことを言っていた。さっぱりとした顔をしていた。 「なにそれ。それが結婚なの?」 「まあね。『もっとちゃんとして、まっとうに、きちんと』生きることにし…