醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

こんな小説を書いています

白濁(三十七)

「キンミヤ、赤玉ポートワイン、マッコリ」 「だろ? ちょっとおねえさん、省略して言ってごらんよ」 「えーと? キン……、え、やだあ」 「だからさあ、ちょっとあんまりだから、『夏の雪』って名前が付いたってわけよ」 男はアロハの背中を得意げに反らして…

白濁(三十六)

触れ合ったところから感じる体温に、体の表面が溶けて滲み出ていきそうな気がした。 それは、タケシさんに? それとも見知らぬ隣の男に? もうどっちだっていい気がした。 カウンターの奥で、アカリさんと呼ばれた女が身を乗り出す。 「マスター、アタシ『夏…

白濁(三十五)

「あっ。えっと、日本酒を……常温で」 「あいよ」 もっきりで出てきたグラスには、受け皿からもこぼれそうなくらいなみなみと酒が注がれていた。 「さっきも日本酒、結構呑んでましたよね? 知りませんよ、また倒れても」 タケシさんが言った。 「いいんです…

白濁(三十四)

家に帰る。 レジ袋の中から六本入りの缶ビールを取り出して、冷蔵庫の隙間に無理やり詰め込む。一本はそのまま、プルタブを開けた。台所の床にへたり込んだまま、ぬるいビールを喉に流す。 ふと、携帯を手に取る。 わかってはいたけれど、坂井からのメールは…

白濁(三十三)

さあ、あとは簡単だ。 何軒かハシゴを重ねて、最後に私の部屋へ行けばいい。 高橋とそうしたみたいに。 誰かに触れたくて仕方なかった。誰かの肩にしがみつきたい。こんな私の体にも、需要があるのだと教えて欲しい。

白濁(三十二)

タケシさんのつかんだグラスの中で氷が溶けて、カラン、と鳴った。 「誰か待ってるような顔して、ちょっと上見上げて、そのくせ次から次にがんがん呑んで。そのうち倒れるんじゃないかと思ったら本当に倒れるから、『しめた!』って」 「うわあ、最低」 鼻に…

白濁(三十一)

ほんの数軒となりなのに、いつも行く店とはまったく顔ぶれが違っていた。椅子のあるせいか、こちらは年配客が多い。呑みに来た、というよりは、夕飯を外に食べに来た、お年寄りのお一人様が目立った。バラエティを流しているテレビばかりがにぎやかだ。 「タ…

白濁(三十)

肩に手を置いてきたのは、タケシと呼ばれていた男だった。日曜なのに今日もスラックスをはいて、ネクタイまできっちり締めていた。 「それじゃ」 高橋はそう言うと、こちらの顔は見ずに軽く手を上げ、駅の方へ歩いて行った。 「もう酒、見たくなくなった? …

白濁(二十九)

あれから恥ずかしくて呑みに行けていないのだけれど、東急で買い物をするとどうしても店の前を通ってしまう。 日曜日。日暮れの早くなった商店街の煙草屋の前で一服しているのは高橋だった。私は買い物袋を下げて家に帰るところだった。 目が合ってしまう。

白濁(二十八)

そのまま押し入られたらどうしよう、と思っていた。男は背後に立っている。 おそるおそる振り向く。ちょうど外灯の逆光になり、男の表情はよく見えない。 「……ありがとうございました」 「こんなところにアパートがあったんですね。古い一軒家ばかりだと思っ…

白濁(二十七)

「それじゃあ、立てますか?」 「いえ、ほんとにいいんです。自分で帰れますから」 「もうタクシー呼んでますから」 男は私の腕を取って、自分の肩にひっかけた。 「立ちますよ。せえーのっ」 「あっ」 思ったより自分の足元はおぼつかなかった。 「ほんとう…

白濁(二十六)

「大丈夫ですか。救急車、呼びます?」 カウンターに肘をついて、なんとか立っていたつもりだったけれど、気がつけば外の通路に寝かされていた。目の前に、瓶ビールの黄色いケースが転がっていた。その横に、少し埃を被った革靴。グレーのスラックスの裾。 …

白濁(二十五)

高橋修二からは、あれから一度も連絡はなかった。私からもメッセージをすることはない。ときどき、平凡な投稿がFacebookのタイムラインに流れてくる。ラーメンを食べただとか、娘を連れて海に行っただとか。 思い出したようにお互いの投稿に「いいね」ボタン…

白濁(二十四)

「愛し合う」だなんて言うけれど、そんなふうに感じたことは一度もない。 その手に触れられているとき、私は自分の体をただの物体のように思う。セックスドールと変わらない、女の体の形をした玩具。

白濁(二十三)

「さんざん親にわがまま言ってきたし、そろそろお母さんの期待にこたえなきゃなって。 美里はそんなことを言っていた。さっぱりとした顔をしていた。 「なにそれ。それが結婚なの?」 「まあね。『もっとちゃんとして、まっとうに、きちんと』生きることにし…

白濁(二十二)

大学を卒業してから、同性の友達ができなくなった。それは、坂井とばかり会っていたからではあるけれど、それだけじゃないと思う。例えば、懐かしい男友達から連絡があれば、すぐさま東京にまでも出掛けて行くのだから。

白濁(二十一)

高橋はシャワーを浴びようとはしなかった。全裸のまま、布団の上で仰向けに横たわっている。棒切れみたいな、痩せて色白の体。やけに太いすね毛がよく目立つ。その目は天井に向けられていた。私は、白い腹に手を伸ばした。すべすべして、少し冷たい。呼吸は…

白濁(二十)

三軒目にアパートの近くのエスニック料理屋で呑んでいたときには、だいぶ酔っ払っていたに違いない。ラム酒をロックでたらふく呑んだ。布袋さまのタグがついたラム酒、パイレート。 他のラムよりも少し高いけれど、ラムネのようなすっきりとした甘さ、さらさ…

白濁(十九)

「たまにはもう一軒、一緒にいかがですか」 と高橋が言うので、敷居が高くて一人ではなかなか入れなかった焼き鳥屋を提案した。噂によると、混んでいる日には一見さんは「予約でいっぱいだから」と断られてしまうらしい。 小町通りの路地裏のその店は、今日…

白濁(十八)

鎌倉に越してきてからは、ハイヒールを履くのをやめてしまった。なんというか、このまったりとした空気感にとんがった靴は似合わないのだ。休みの日は、真冬以外はビーチサンダルばかり履いている。そのまま砂浜に降りられるし、気が向けば海水に足を浸した…

白濁(十七)

「白石さん、センスありますよ」 アルゼンチンタンゴの先生が言う。先生というにはまだ可愛らしい、私よりも少し年下の青年だ。 「そうですか?」 「ええ。アルゼンチンタンゴは、我の強い女性にはちょっと向いていないんです。男が次にどんな動きを仕掛けて…

白濁(十六)

「わざわざありがとうございました」 「いえいえ、別にすることもなかったし」 それは本当だ。予定の無い土曜日、坂井にメールしてみたところで返事が返って来ないのはわかっている。 「そうだ、白石さん、Facebookってやってますか?」 「一応。登録はした…

白濁(十五)

ギャラリーの入り口がわからなくて、何度か通り過ぎてしまった。住宅地の中に建つ無機質なビルの、わざと見つかりづらいように造ったみたいにみえる狭い階段を昇った先に、高橋修二の個展会場はあった。

白濁(十四)

ポストカードの写真はやけに暗かった。コンクリートの壁と、そこに這う錆びた金属の棒。それらは複雑に絡まって、中途半端な蜘蛛の巣のように見える。 カメラマンの名前は、高橋修二。 「高橋さんっておっしゃるんですね」 「ああ、まだ名乗ってなかったです…

白濁(十三)

白く濁ったそれは、飲み食いしたものによって味が変わるのだという。発泡酒ばかり飲んでいる坂井の体液はさらりと軽く、そして少し苦い。 一度、苺を山ほど食べてみたらどうなるか試してみたことがある。スーパーで安売りになっていた苺を三パック買い込み、…

白濁(十二)

立ち飲み屋なんて入ったことがないから勇気が要った。意を決してガラス戸を開け、仕事帰りのサラリーマンばかりのカウンターに、わずなか隙間を見つけて手を置いた。女一人の客は珍しいのか、視線がちらちらと投げられる。 「いらっしゃいませ、なんにしまし…

白濁(十一)

結婚をゴールとしない恋は、いつしか単調なものになる。もう二人で日中にどこかへ出掛けることもなければ、最初の頃のように飲みに行くこともなくなっていた。ただ坂井は私の部屋に通って来て、もうひとつの自分の家のようにくつろいで帰っていく。それは、…

白濁(十)

裏の家の金木犀が咲いた。 台所の窓を開けて置くと、甘い香りが部屋に流れ込んでくる。 畳の部屋に不釣り合いな白いソファーは、ある日突然宅配業者が運びこんできた。坂井からの引越祝いだった。 本人のほうは、やっぱり不機嫌な顔をして時折やってくる。「…

白濁(九)

『交通費? いいですよ。白石さんの場合は、契約で全額出すことになってますから』 派遣会社の労務担当に電話をして、鎌倉に引っ越した場合に交通費は支給されるのかどうか確認した。全額は無理と言われるかと思ったが、あっさりと通ってしまって拍子抜けし…

白濁(八)

「恋は三年で終わる」と言っていたは、瀬戸内晴美だったか、山田詠美だったか。 醒めた恋は、愛に浄化する? いや、そんなことはない。 相手への幻想が融けて、尊敬も無くなった後に残るのは、依存だけだ。