表現することを仕事にして、食べていけるか?
工芸の専門学校へ進学した、高校時代の友人の卒業制作を見に行ってきた。
池袋の自由学園明日館。レトロな建物に良く似合う、卒業生の作品。作家の卵たちの作品には迫力がある。圧倒される。ガラス細工、陶器……。どれも完成度が高くて、思わず買ってしまいたくなるものばかり。
自分の創ったものが一人歩きし、誰かの生活の一部になればいい
友人の作品はステンドグラスだ。彼女は「芸術としてあがめるものではなく、日常生活に何気なく溶け込んでしまうものをつくりたい」と言う。異国の教会で見るような壮大なステンドグラスのデザインの一部を、彼女は切り取って掌サイズにして表現した。そうすると不思議なことに、近寄りがたく見えたステンドグラスは生活に身近な植物の図柄に変わってしまう。親しみやすい、暮らしの一部に。
「名を売りたいとは思わない。無名の作品でありたい。自分の創ったものが一人歩きをし、誰かの生活の一部になればいい。誰が作ったかわからないけれど、お気に入りの服があるように。そんな何気ない、暮らしの一場面に溶け込むように」
そう、つぶやいた。
評価されるかどうかに関係なく、創り続けていたい
どうして人は表現しようとするのだろう。ただ話すだけでは伝えられないものを、誰かに伝える行為。それは自分を認めてもらうためだろうか。
多くのひとに褒められれば嬉しい。だけれど、きっとそれだけじゃない、どうしても押え切れない情熱がある。創らずにはいられない。評価されるとかされないとか関係なく、つくりたい、つくりつづけていたい。それが、生きるということだから。
夢で食べていくこと。食べる為には、妥協しなくてはならない時が必ずある。自分の創りたいものと、クライアントの意見が合わなければ、自分の美意識を曲げなくてはならない。いや、それでも自分の腕で生きていくのだと彼女は言った。きっとそれもひとつの道なのだろう。
さぁて、私はどうしようか。小説を書くだけで生きていく自信はない。食べる為の仕事は仕事としてこなし、夢は夢として追いたいと思っている。ああ、だけれどできる事なら書くことに関係する仕事に就きたい。
春から、三年になる。そろそろ進むべき道を決めなくてはならない。
追記(2013年11月11日)
そして彼女はこの頃の決意を実証してガラス作家となり、私は図書館司書になった。彼女の作品には、大船の「九つ井(ここのついど)」という蕎麦屋の工房「すえのさと」で出逢うことができる。