醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

恋の狂気 ~ 江國香織 「ウエハースの椅子」

母が突然庭に来る猫を「ゼツリン」と呼び始めた。何事かと思えば、江國香織の「ウエハースの椅子」に感化されたらしい。

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

江國香織の描く狂気は、理解できてしまうので恐ろしい。浴槽で読んでいるうちに、表紙の脚が自分の脚と重なって見えた。

 帰り道、私は注意深く、来たときと別の道を選んで帰る。上手く一人に戻れるように。*1

 夜。私は自分がつい恋人の訪問を待ってしまうことに気づき、待ってなどいない、と思いこむために、一人で外出する。*2

 恋人のいないとき、食事はただの義務にすぎない。*3

「私の憶えている限り、私はあなたに出会ったときに、もう恋をしていた。どういうことかしら。自分でもよくわからない。一目惚れというのではないの。あなたに出会ったとき、すでにあなたに恋をしていた」*4

恋人の不在はこの街の姿を変え、私の姿を変えてしまう。私は淋しさを感じない。きのうまでの私は、恋人と一緒にどこかへ行ってしまったと感じる。ここにいるのは、恋人に会ったこともない私だ。*5

それはまるでおれの世界を映しているようで、思わず鳥肌が立つ。

恋人と出逢ってから、おれの世界は変わってしまった。恋人に会えるのを待つ日々。小説の中の恋人のように、妻子ある人ではないけれど、彼は自分の家族のもとに帰っていってしまう。おれからそこを訪れることはできない。

閉じ込められている気がする。いや、閉じ込められているのではなく、自ら閉じこもっている。快楽を手にする代わりに自由を手放した。放浪の自由を。彼に出会っていなかったら、おそらく今頃ここにはいない。

傍にいたくて、ここに留まっている。それでも生まれつきの放浪の星は消えず、彼の持ち込むものが増えていくことに眉をしかめてしまう。いつでも飛び立てる身軽さ。それを失っても、今は閉じこもることしかできない。

*1:p.37

*2:p.73

*3:p.94

*4:p.144-145

*5:p.149