醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

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向田邦子 「霊長類ヒト科動物図鑑」

向田ファンならお馴染み、「う」の抽斗についての一節を含むエッセイ集。運命を感じさせる「ヒコーキ」もこの本に納められている。

霊長類ヒト科動物図鑑 (文春文庫 (277‐5))

霊長類ヒト科動物図鑑 (文春文庫 (277‐5))

散らかった部屋や抽斗のなかを片づけてから乗ろうかと思うのだが、いやいやあまり綺麗にすると、万一のことがあったとき、
「やっぱりムシが知らせたんだね」
などと言われそうで、ここは縁起をかついでそのままにしておこうと、わざと汚いままで旅行に出たりしている。*1

しかし飛行機事故で台湾の空に散ったその日、彼女の部屋は綺麗に片付けられていたのだという。

向田邦子 最後の炎 (中公文庫)

向田邦子 最後の炎 (中公文庫)

彼女は自分の死を予感していたのだろうか。いやそうではなく、その頃にはむしろ縁起にこだわりたくないという心境になっていたのではないか、と、『向田邦子 最後の炎』の著者・小林氏は語る。私も、どちらかといえば後者であったような気がする。気がするというよりは、そう思いたい。

さて、『霊長類ヒト科動物図鑑』の中にこんな話がある。ある会社の要職にある男性。向田さんは彼と会食をした。まず主人側の彼が前菜、スープ、肉料理……とコース通りに注文したので、招待された向田さんたちもそれに習って好みのものを選ぶ。

 ところが、全員の注文を聞いてボーイが引き下がろうとした寸前に、そのひとは、
「うむ。そうだ」
 忘れていたが、おひるが遅かったんだ、と頭を掻いた。
「申しわけないが、ステーキはパスしてサラダだけにしてよ」*2

実はこれ、男性の演技なのである。要職の会社員となれば接待の会食が毎食のように続く。そのたびにコース通りに食事をしていては、コレステロールが跳ね上がるばかり。とはいえ、主人側の自分が始めから「サラダだけ」と注文しては、客が遠慮してしまうだろう。凄い。何たる気遣い。

ぬくぬくと大学生をやっていると、気遣いというものを忘れそうになる。社会に出たら嫌がおうにも叩きこまれるだろうけれど、その前に自分でも気をつけねばならないなぁ。

*1:向田邦子 「ヒコーキ」 『霊長類ヒト科動物図鑑』 (文春文庫) 文藝春秋 2005.2 p.213-214

*2:「男殺油地獄」 p.157