醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

女人成仏 ~ 瀬戸内寂聴 「釈迦」

仏教説話に描かれた女性観を探る、という授業をとった。扱われる資料という資料に、みな男尊女卑の考えが見られる。女は愛欲にひた走る、女は嫉妬にとらわれる。女には血のけがれがある。ゆえに女は仏にはなれない。そ、それは一体どういうこと!?

というわけで、寂聴さんの「釈迦」を読んでみる。仏陀にとって女とは何だったのだろう。

釈迦 (新潮文庫)

釈迦 (新潮文庫)

女に近づいてはならぬ。近づけてもならぬ。女こそ人間の煩悩の最たるもの、渇愛の元凶だ*1

渇愛。恋焦がれ、もっと愛されたいと思う欲望。それは数多存在する苦の中でも、とりわけ人を苦しめる。女を悪にしてでも男の身から遠ざけなければ、苦悩を避けられないということなのかもしれない。苦しみの元を断つ。それがおそらく仏教にとっての救い。

でも未熟な私には、若くして死を選んだプラクリティの思いのほうが共感できる。世尊の侍者・アーナンダに、気が狂うほど恋焦がれた卑しい身分の娘。

 アーナンダさま。
 あなたにお目にもかかれないこの世に生きているのが耐えられなくなりました。同じ空気を吸っていたって、同じ日や月を仰いだところで、あなたの声も聞けず、あなたのお肌にも触れられないこの世に何の未練がありましょう。*2

恋に身を焼き、嫉妬の炎にもまれて、苦しみ悶えて。それでも恋をしていたいと思う。辛く苦しいからこそ、この世はおもしろく、美しい。

それでも忘れちゃいけないのが、パーターチャラー尼僧のこの言葉。

プラクリティ、わかりますか、ほんとうの愛は相手を苦しめない愛ですよ。相手に迷惑をかける愛は、ほんとうは自己愛で、自分を愛しているだけなのよ*3

うーん、耳が痛い。自殺してアーナンダを悲しませたプラクリティの恋は、やっぱり自己愛なんだな。そして私のこの恋も、だいぶ自己愛なのでしょう……

*1:瀬戸内寂聴 『釈迦』 (新潮文庫) 新潮社 2005.11 p.219

*2:同上 p.58

*3:同上 p.50