醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

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額田女王が本当に愛した人は誰だったのか? ~ 井上靖 『額田女王』

年上の恋人が「読め」とすすめるから、井上靖をちゃんと読もうと思って、以前に『しろばんば』を図書館で借りてみたけれど途中で挫折。どうやら小娘には、色恋の話の方が読み易いようだ。

しろばんば (新潮文庫)

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額田女王(ぬかたのおおきみ)は、飛鳥時代の皇族だ。大海人皇子(後の天武天皇)に嫁いだ後、大海人の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)にも愛されたと言われている。

額田女王 (新潮文庫)

額田女王 (新潮文庫)

男性の作家が描く女性には少し違和感を感じる。井上靖の額田は、強く、冷たい印象すら感じられる。やはり男性から見た女性像なのだろう。主人公である彼女が霞の向こう側に立っているように、遠く感じてしまうのだ。もし、女性の作家が彼女を描いたなら? もっと嫉妬に苦しむ、熱い女になるのではないかと思う。そんなどろどろした、女の厭な部分も盛り込んだ額田の話も読んでみたい(自分で書けばいいのか)。

井上靖の額田は、神の声を聞く巫女として描かれている。神の声を聞く女は、人間の声に耳を傾けることはできない。人間の声を聞こうとすれば、神の声を聞けなくなってしまうからだ。大海人皇子に抱かれても、中大兄皇子に奪われても、額田にはひとつだけ譲れないものがあった。

大海人皇子さまがお抱きになったように、どうぞ中大兄皇子さまもお抱きになるがいい。でも、大海人皇子さまに差し上げなかったものは、中大兄皇子さまにも差し上げられません。それは私の心です。神の声を聞くために生まれたわたくしが、どうして人間の声に耳を傾けていいでしょう。
 ――心はあげられない、心だけは。*1

けれどその決意も、やがて揺らいでしまう。一人の男の前では。

今に伝わる、額田の有名な歌がある。

茜さす紫野行きしめ野行き野森は見ずや君が袖振る 

茜色に染まった紫野を、しめ野を行くあなた(大海人皇子)。森の見張りが見とがめないかしら、そんなに私に手を振っていたら。

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教科書に載るほど有名なこの歌。いまや天智天皇の妻となった額田王が、かつての夫・大海人皇子に送った愛の歌だと思っていた。引き裂かれた恋人同士の歌なのだと。しかし井上靖は、まったく違う解釈をこの歌に与える。

この歌は誰に対して詠ったものでもなかった。曽ての中大兄皇子である天智天皇に呈するためのものであったのである。お聞かせしましょうか。こんなことがございましたのよ。茜の匂うような紫野を行き、しめ野を行きました。そしたらあの方が遠くで袖をお振りになりました。森番が見ていないかと心配でした。でも、こんなことを申し上げるわたくしの気持はお判りでございましょう。誰に判らなくても、あなただけにはお判りの筈でございます。*2

誤解を解く為の歌。これでようやく納得がいった。天智天皇の死後に、額田が詠った歌のせつなさ。いくつか伝わる彼女の歌の中で、私はこの歌が一番好きなのだ。

君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く

このとき額田が待っていた「君」とは、果たして誰だったのか?

額田女王 (新潮文庫)

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天智と天武 ―新説・日本書紀―(1) (ビッグコミックス)

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*1:井上靖 『額田女王』 (新潮文庫) 新潮社 1973. 3 p.160

*2:同上 p.403