醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

東京だけが「中心」じゃない

身体が重いので一日中ひるね。高校の先輩や親やヨリからメールが来る。めったに鳴らない携帯電話が大いそがしだ。

先日はお隣が十人以上の大宴会場となっていたので、二十三時半ごろ大家さんに電話して怒ってもらった。一度目は全然きいてくれなくて、さらに五人くらい人が増えたので、もう一度怒ってもらった。ようやく、いつもの静かな夜。

学生街に住んでいる以上、こういう学生の騒音トラブルには目をつぶるべきなのかもしれない。こちらも、神経が過敏になりすぎている。ちょっとした物音がするだけで、びくびくしてしまう。

いちばんいいのは、お隣さんと仲良くなってしまうことなのかな。よく知っている人だったら、ちょっとうるさくても「ああ元気にしてるのね」で済むと思うから。

顔も名前も良く知らないひとがたてる音だから余計に嫌なのだろう。何か仲良くなるきっかけをつくってみるか、と考えていたら、親やヨリが「引っ越してきてから一度も挨拶に来ないような人とは
関わらない方がいいと思う」と引き止めた。

そういうものなのだろうか。一人暮らしのマンションだと、引越しの挨拶をしないことも一般的になっていると聞いたことがある。とりあえず、挨拶をしないことは非常識なことではないのだろう。でも、挨拶しないということは「関わりたくない、近所づきあいはごめんだ」という意思表示なのかな。だとしたら、こちらから歩み寄るのは難しいかもしれない。

ストレスの多い街、東京。私には、この街での暮らしは向いていないのだろう。

村に住んでいるときは、それはそれで人間関係の窮屈さを感じていた。一度こじれてしまうと難しい。精神的にまいってしまいそうなことも何度かあった。

それでもどうにか日々を乗り越えられたのは、そこには自分よりも大きな自然があったからだ。ふさぎこんでしょうがないときは、川べりをぶらぶら散歩した。いつも周りには、自分よりもでっかい山がある。夜になったら、濃い天の川が夜空にかかる。数え切れないほどの星が見える。

東京の街中では、自分よりも大きいものはビルばかりだ。空すら、小さい。ほんとうに、小さい。パッチワークのような空に時折月がのぼるけれど、その月すらタイルの一枚のように見える。

新しいものがここには満ち溢れている。でも、そんなに「新しいもの」が必要だろうか?

辻信一さんの本を読み始めた。

スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化

スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化

 沖縄の読谷村では、町とか市とかへと名称を変更できるだけの人口を持つようになっても、住民の意思で「村」に留まることを選んでいるという。合併してでも市になりたがる「大きいことはいいこと教」の日本にあって貴重な存在だ。この村の元村長の持論は、「地球は球だから、どこでも、そこが中心だと思えば中心」というものだそうだ。*1

一度、東京という街で暮らしてみるのはいい経験かもしれない。ありとあらゆるものが東京には集まってくる。いいものも、わるいものも。だけど、東京が「中心」であるとは限らない。

私は私の「中心」を探しにいこう。現在住んでいるこの二十三区内も、今の私の「中心」であることは間違いないけれど、もっと愛を込めて「この場所が私にとって世界の中心です」と胸を張って言える場所を探しに行こう。

*1:辻信一 『スロー・イズ・ビューティフル』 (平凡社) 2001.9、 p.46-47