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醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

立ち呑み

図書館の開館時間は通常通りになったが、まだ授業は始まらず人が少なくてとても寂しい感じ。休み明け勤務になんとなく消耗して、一杯だけ、と思って呑みに行く(一杯で終わる筈もない)。馴染みの店は疲れてよれよれでも行けるのがいい。知った顔に囲まれてグラスを干す。草臥れているせいか、酒の味もビールの味もよくわからない。

夜毎にカウンターで呑んだくれているおれだが、立ち呑み遍歴はわりと短い。二〇一〇年「散歩の達人」を見て、初めて立ち呑みの呑み屋が鎌倉にあることを知る。その年の十二月に行った満月ワインバー(当時は鎌倉惣菜でやっていた)が立ち呑みデビューだ。綺麗なおねえさん方に囲まれて、おれは小さくなって飲んでいた。満月ワインバーは気軽だけれど安いわけではないので、おれのペースで呑むとすぐに五千円の大台に突入してしまう。二〇一一年は立ち呑み道をきわめるぞー、と暮れの夜空に誓う。

学生時代には一軒だけいきつけの店があった。早稲田通りから横道をそれたところ、蔦に絡まれてひっそりとある「さど」。カウンターと、小上がりが二卓だけの小さな店だった。客層は五十代後半から七十代前半。品書きはなく、黒板もたまにしか出されない。いつ行っても同じ顔ぶれがカウンターを囲んでいた。注文するものは皆だいたいいつも決まっている。

初めて暖簾をくぐったのは就職説明会の帰りだった。初々しいリクルートスーツを見て戸惑ったおかみさんは、見た目は女子大生のおれのためにハンバーグ煮込み定食を作ってくれた。おずおずと「…あの、お酒を…」と注文してみる、中身オッサンのおれであった。

それからはすぐ覚えてくれて、月に一度くらいしか顔を見せないおれのために、桜色の小ぶりのお銚子を用意してくれた。

ボーイッシュで美人のおかみさんがつくってくれるツミレ鍋やおでんが滋味深くて絶品だった。厨房では強面の大将が魚をさばいている。気が向くとその日のおすすめの刺身をおまけしてくれたりする。時折常連さんに一杯おごってもらったりしたが、ハタチそこそこだったおれは今ほど鍛えられていなくて、三合呑んだだけでくらくらとした。

卒業してから一度だけ行った。月日は流れて街もすっかり様変わりしているのに、暖簾の向こうは時が止まったように、そのままだった。

さて、ヒグラシ文庫はヤドカリバル。鮪の頬肉ニンニク焼き、イナダのバジル味噌あえ、にぎり寿司。常温日本酒、ビール、冷酒。帰ってからポテトチップを少し。