醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

野原海明「コメリナ・コムニス」を試し読みできます。

「わたし、先輩がいたから吹奏楽部に入ったんです」

佐々木瑞穂にそう言われたのは五月、演奏会に使う楽器を運び出していた音楽準備室だった。他の部員も顧問の教員もまだ来ていなかった。
「中学のときからずっと好きでした」

瑞穂のことは、入部してくるまで知らなかった。同じ中学だったということも。

うつむいた彼女の顔は風呂にのぼせたように赤い。指先が小刻みに震えていた。
「つきあってもらえませんか?」

僕はこんなときに、なんて答えたら良いかよくわからなかった。
「別に、いいけど」

ぶっきらぼうに言って、何もなかったように楽器の入った黒いケースを持ち上げた。


第二校舎の屋上へ行く扉の鍵は、もうずいぶん前から壊れている。放課後そこへ行くといつも先客がいた。タンクの影で蓮美が煙草をふかしている。風が蓮美の、肩に掛かるくらいまで伸びたまっすぐな髪をなびかせ、手元から立ちのぼる煙りをかき消していく。緑色のマルボロの薄荷の匂いが微かにした。夕陽はちょうど山の向こうに沈んでいくところで、見渡せる町中を橙色に染めている。蓮美は旨そうに目を細める。
「悪いことほど、気持ちがいいね」

振り向き、にっと笑う。 派手な女子はいくらでもいる。例えば、極端に短いスカートに真っ黒のアイラインとつけまつげ、それから少し脱色した髪。そんなクラスメイトたちの中にいると蓮美は目立たない方だ。化粧をしているところも見たことがない。女子の群にはまじわらず、でも誰かに話しかけられれば快く微笑んでみせる。何かを演じているように。放課後の屋上では、肩の力を抜いたそのままの蓮美になった。

高校の敷地を区切るように小川が流れ、小さな橋を越えたところに野球部のグラウンドがある。野球部の掛け声に混ざって吹奏楽の練習の下手くそな演奏が聞こえてきた。
「さぼり?」
「うーん、そう。一服」
「夏来、副部長なのにいいの?」
「いいのいいの、別にコンクールに出るわけでもない。弱小吹奏楽部」
「ふーん」

僕は制服のポケットから握りつぶした煙草の箱を取り出して火を点けた。息を吸い込むと、すっと頭が冴えるような気がする。吹奏楽部の部室にはなんだか居辛かった。どこにいても、瑞穂の視線を感じる。そのまん丸い目で僕をずっと見ている。黒い瞳はいつも潤んでいる。

電話番号を交換した。でもまだ、僕からは掛けたことがない。
「一年の子とつき合ってる?」
 不意に蓮美が言う。
「なんで知ってるの」
「うーん、見ていたらだいたいわかるし」

そう言って、ラインストーンのついた、宝石箱のようにきらきらした携帯灰皿に灰を落とした。
「ずいぶん奥手なんだね。見ていてじれったいったらありゃしない」
「うるさいな」

答えると蓮美はからからと笑った。
「そういうおまえは、彼氏つくらないの? 全然噂聞いたことないけど」
「一度や二度くらい寝た男を、彼氏だとか呼ばないんだよ」

なんでもないことのようにさらりと言った。僕は耳たぶまで赤くなっているような気がして、夕闇に沈んでゆく遠くの山へ目をそらした。


瑞穂の名前が携帯電話の画面に表示されると、僕はひどく緊張する。何を話したらいいのかわからないのだ。共通の話題なんて部活のことくらいしかない。僕よりもさらに緊張した声で瑞穂は話す。女友達がどうしただとか、どこどこのケーキが美味しかっただとか。それも途切れ途切れに。僕はとりあえず相づちを打つけれど、彼女が話している内容は全然頭に入って来ない。それじゃまた学校で、と電話を切るとほっとした。

そのくせよく、瑞穂の夢を見た。その細い腕をつかんで、無理矢理に口づける。ブラウスのボタンを引きむしって、子供っぽい柄のブラジャーに顔を押し付ける。

目が覚めると、罪悪感でいたたまれなくなる。余計に、そのあと目を合わせづらくなる。

そんな調子だからデートにだって誘ったことはなかった。日曜日にはいつもひとりで街を歩く。本屋をのぞき古着屋をのぞき、満足して帰ろうとしたところで、薄暗くなりはじめた駅の空中通路の下に蓮美の姿を見つけた。制服ではない蓮美はずいぶん大人染みて見える。暗がりの中で、真っ白なワンピースが浮き上がって見えた。隣にスーツ姿の男が立っている。男は高い背を屈めて、とても自然に蓮美の唇に短く口づけると雑踏のなかに消えていった。蓮美はしばらくうつむいていたが、顔を上げて僕に気づいた。涙が頬を伝っていた。一瞬動揺した顔をして、でもすぐに手の甲で拭うとにんまりと微笑み、僕のほうにつかつかと歩み寄って来た。
「見てたでしょ? 口止め料におごるから、ちょっとつきあってくれない?」

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コメリナ・コムニス

コメリナ・コムニス