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醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔小説〕永久就職

スーツを着るのが嫌になった。

雨で湿気た真っ黒のリクルートスーツを脱ぎ捨てて、薄汚れたパーカーに着替える。靴下にサンダルをひっかけ、財布を片手に握りしめて「三日月」の扉を開ける。

三日月は学生街の裏道にあるバーだ。蔦が絡まって殆ど廃屋同然のビルであまりにも怪しい外観なので、普通は学生はやってこない。

去年ゼミの飲み会の帰りに、酔った勢いで潜り込んだ。黒い壁、タキシード姿のバーテンダー、赤いベルベットのひかれた丸椅子。
マルガリータを」

よく知らないカクテルを、うろ覚えのまま頼んだ。わたしは破れたジーンズによれよれのティーシャツを着ていたけれど、バーテンダーは嫌な顔ひとつしなかった。

今日も、適当な格好でカウンターに肘を着く。すっかり常連になったわたしには、さしものバーテンダーも時には顔をしかめてみせる。親しさの表現だ。バーテンダーの名前は、広田という。
ジントニック

言うなり猫背になるわたしに広田さんはいう。
「また不採用?」
「広田さん、面白がってるでしょ」
「そんなことないさ」

ステアをしながら、爽やかな笑顔を見せる。

携帯電話が鳴った。アイドルの歌う曲の着メロが賑やかに店内に流れる。
「ユウちゃん、マナーモードにしといてよ」
「はいはい、ごめんなさいね」

わたしは携帯をつかんで店の外に出た。
「……はい」
『オレ』

電話の向こうで耳馴染みの無い声が言う。
「どちらさまですか」
『竜也』
「……たっちゃん?」
『ひさしぶり』
「いやほんとうに、久しぶりだね」

竜也は高校の同級生だ。卒業して一年くらいは連絡をとっていたが、その後はどうしていたかまったく知らなかった。
『話があるんだ。今日、時間ある?』
「え、今日?」
『そう。どこにいる?』

わたしは三日月のバーの名前と場所を教えた。すぐに行くと、竜也は答えた。

カクテルは、やけに早く酔いが回る。
酔っ払った頭でぼんやり待っていると、三日月の扉が開く鐘の音が鳴った。久しぶりに見る竜也が立っていた。

高校のときも随分太っていたけれど、さらに体格がよくなったように見えた。脂肪で膨らんでいた肩が、若干筋肉質になっている。
「ユウ、」

隣りのスツールに腰を下ろした。
マルガリータを」

どこか懐かしくなる、頼み方だった。
「話があるの?」
「ああ」
「なに?」
「あのさ、」

竜也は出てきたカクテルを一気に飲み干した。
「唐突だけど、結婚して欲しい」
「は?」

わたしは呆気にとられて、竜也の全身をあらためて見渡す。ずいぶん、仕立ての良いスーツを着ている。
「オレね、会社を立ち上げたよ」
「はあ」
「儲かってるんだ。再来月には海外に進出するつもりなんだ」
「そう」
「あっちじゃ、独身じゃ格好つかないんだ」

わたしの目をのぞき込んで言う。
「別に、わたしじゃなくていいじゃない」
「契約だけでいい。指一本触れない。オレと一緒に出かけるときだけ、゛ワイフ”のように振る舞ってくれればいい。一生おまえの面倒はみるよ。別に、他の男と寝たって構わない」
わたしはその申し出に、すぐにでもすがりつきそうだった。脳裏に、恋人の顔が浮かぶ。
「考えさせて」

ジントニックを飲み干して、そう言った。
「わかった」

ばかにすんなり、竜也は帰って行った。
「ユウちゃん、どうするの」

広田さんが言う。
「わかんないよ」
わたしはカウンターに突っ伏す。
「おかわりをちょうだい」

広田さんは苦笑いをして、ジンの青いボトルをつかむ。

恋人とは、二年前からつき合っていた。演劇サークルで出逢って、ひやかし半分のわたしとは違って、彼は本気で俳優を目指していた。
「ユウちゃん、公務員になってよ。そうしておれを喰わしてくれよ」

わたしの裸の身体の上で、いつもそう言った。わたしは彼のために働こうと思っていたけれど、どうしても就職活動に熱が入らない。御社を志望した理由? そんなもの、あるわけないじゃない。

『返事は決まった?』
竜也からメールが来ていた。
「わからない」

そう返事を打った。
『もう一度、会おう』

お台場で会うことになった。
またぴっちりしたスーツを着て、竜也はやってきた。
観覧車の回る埠頭を、ただ二人でならんで歩いた。
「どうしてわたし?」

訊くと、何も答えずうつむいた。
その様を見て、わたしは決めたのだ。

恋人のバイクの後ろに乗って、竜也の家へ行く。荷物はもう全部送ってあった。恋人には端から話した。「指一本触れない」ことも。

恋人は鼻歌交じりに、国道を飛ばす。 わたしは彼のやけに細い脇腹につかまりながら、その鼻歌が狂気に満ちてくる瞬間を恐れている。

竜也の家の前に着いた。セコムのたくさんついていそうな、豪邸だった。

バイクをとめて、わたしを下ろす。
「早くいけよ」
恋人が言う。
「じゃあね」
「じゃあねじゃ、ねぇよ」

恋人は身軽にバイクにまたがると、国道を引き返していった。

薄汚れたパーカーのわたしは、なにかすがすがしい想いで、白亜の豪邸のドアチャイムを押す。