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醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔随想〕ホーム

上京して初めて住んだ町は東村山。治安の悪さと大学までの遠さに辟易して、早稲田へ越した。早稲田は本屋と喫茶店と公園の充実した良い町だったけれど、海と山のある日々に焦がれた。いつかは鎌倉に棲みたいと思っていたけど、それは勤めなくても稼げるようになった四十代くらいになってからの話だと思っていた。

五年間を過ごした早稲田を出ようと思ったときに、最初に不動産屋のウィンドウを眺めに行ったのは高円寺だった。ミニチュアみたいな小さなお店。商店街。八百屋や魚屋の低く響く売り声。深夜まで煌々と明るい焼鳥屋。喫茶店と古本屋と、呑み屋と雑貨屋と買い食いには事欠かない町。そこに棲んだとしてもきっと適応して、楽しく毎日飲み歩いていただろう。

けれど何故か縁は鎌倉にあった。当時の勤め先は後楽園。通勤時間九十分。でも遅番担当だから、行きも帰りも一番空いている時間に電車に乗れる。労務担当に電話して、「交通費全額支給って契約だけど、鎌倉からでもあり…?」と恐る恐る聞いたら、「そりゃあ、もちろん」と答えた。なんて太っ腹な会社だ。

東京駅で丸の内線に乗り換える。横須賀線の車窓も、丸の内線のそれも、次々と変化して毎日眺めていても見飽きない。北鎌倉までは深い山。やがて丘に段々と並ぶマンション、大きな神木に埋もれた神社、河川敷の広い公園、工場地帯を埋め尽くす芒と、景色は流れてゆく。丸の内線なんて地下鉄のくせに、時折青空が見えたりする。

やがて電車は後楽園にすべりこみ、駅に降り立てば、ジェットコースターと観覧車が迎えてくれる。おれはいつも決まったスターバックスに入って、ぐるぐる回るジェットコースターを眺めながらコーヒーを啜る。

観光地から観光地へ。それもまた夢のような勤務の日々だった。

だから、東京駅へ降り立つと、とても懐かしい。ここもおれにとってはひとつの「ホーム」なのだ。(文:野原海明)