学生街、早稲田。
大学四年のころ、授業が週に一時間しかなく暇だったので仕事を始めるつもりでいたが、結局身体を壊してしまい通院の日々になった。
日が高くなってから起き出して、一日おきに病院へ行く。いつも混んでるし予約が出来ないので、たくさん本を持って行く。病院へ行く日は、なんとなくそれだけで終わってしまう。
毎日丁寧に部屋中を掃除し食事をつくり、あの頃がいちばん人妻らしかったかもしれない。
病院に行かなくていい日は原稿用紙を持って喫茶店に行った。学生街の裏路地に「norari : kurari」というカフェがある。細い路地の古いビル、非常階段みたいな小さな螺旋階段をのぼった先。
広い窓からは安下宿のベランダが並んでいるのが見える。殺風景な内装が、なんだか独り暮らしの男の子の部屋に遊びに来たみたいで面白かった。
おれは毎日倦んでいて、早く仕事がしたいと思っていた。単調な事務作業でも、なんでも。
気がつくと、しばらく誰とも会話していない、とふと思う。会いたい友達がいないわけではなかったが、会うために約束をしなくてはいけないのは骨が折れる。毎日通う学校や、毎日通う職場があれば、約束をしなくても誰かに会えるのに、と思った。
胸まであった髪をベリーショートにしてみる。「お友達がびっくりしますね」と美容師さんは言うが、それは毎日毎日誰かに会う暮らしをしている人だけだろう、とさめた思いで頷いている。
あの頃はまだ、呑み屋に毎日通っておじさんたちと肩を並べる勇気はなかった。賑やかな暖簾の向こう側を羨ましく思いながら通り過ぎた。