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醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔小説〕じゃらん、じゃらん。(二)

小説

※前回の話 〔小説〕じゃらん、じゃらん。(一)


最初に引っ越すつもりだったのは高円寺あたりだった。小さな古びたアパートがごみごみとある感じと、中央線が高架を、まるで海の上を渡るように走るところに憧れていたのだ。そしていつか、今の仕事を辞めたなら、ほんものの海の近くに棲もうと思っていた。でもそれは、ずっと先のことであるはずだった。

なんとなく本屋で手にとった雑誌の、鎌倉観光のおまけみたいなページに、移住のすすめが見開きで載っていた。都心まで一時間。めったに訪れないその町が、急にすぐ近くに思えてきた。思い立って職場の労務担当に電話を掛けたら、「その距離くらいでしたら問題なく、交通費全額支給できますよ」とあっさり返事が返ってきた。

少ない空き家の中から選んだその部屋は、駅に近いせいか、手狭なわりに家賃が高めだった。もう少し奥まった山間に、同じ家賃で倍ほどの広さの物件を見つけて、私は冗談めかして崇史に「一緒に住む?」と訊いてみた。
「嫌だよ、鎌倉なんて。観光客ばかり多くってさ」

思っていた通りの答えが返ってきて、寂しいような、でもどこかほっとしたような気持ちで、私は駅に近いその小さな部屋に契約を決めた。

崇史が引っ越しの手伝いをしてくれるはずだったけど、あてにはできないから業者を頼んだ。箱詰めだけは手伝ってくれた。食器を新聞紙にくるみながら、「ほんとに引っ越しちゃうんだ。便利だったんだけどな」と崇司が言った。便利、ね、と私は思い、でも口には出さずに微笑んでみせた。

休みの日はいつも散歩をする。海の方まで行って松林を抜けて帰って来たり、スニーカーを履いて山道を歩いてみたり。そうやって独りで町を歩いて、歩き疲れるとすっかり顔なじみになった酒場に立ち寄る。程よく身体が解れたところにお酒がまわり、あんなに眠れなかったことが嘘のように、深い眠りがやってくる。

月に一度か二度、東京から崇史がやってくる。「ほんとうに人が多くて嫌になるよ」と不機嫌そうな顔で靴を脱ぎ、たいていは一日中私の部屋でごろごろして帰る。

その日はあまりによく澄んだ秋空で、私はいてもたってもいられず、「一緒に散歩に行く?」と訊いてみいた。「行く」と、意外な答えが返ってきた。(つづく)


※つづきはこちら。〔小説〕じゃらん、じゃらん。(三)