醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔書評〕南無阿弥陀仏とは、「はい? 阿弥陀さま」という返事だったのか ― 五木寛之『親鸞』

人間臭さを感じさせる親鸞五木寛之の『親鸞』は三部からなる長編小説だ。第一部には、貴族の子として育った八歳から、親鸞と名乗るようになり、越後へ流されるまでが描かれる。

親鸞 (上)

親鸞 (上)

親鸞 (下)

親鸞 (下)

南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ行ける」と教える法然の弟子となった綽空(後の親鸞)。かつて自分の家に仕えていた犬麻呂夫婦に再会し、尋ねられた。

念仏はたった一度唱えればよい、一度念仏を唱えさえすれば、どんな悪事をはたらいても救われるという「一念義」という説があるが、それは違うのか。

「犬麻呂どの――」
「はい」
 気をとりなおして返事をすると、綽空はかさねてはっきりした声でふたたび、犬麻呂どの、とよびなおす。
「はい、なんでございましょう」
 けげんそうな表情の犬麻呂に、綽空は居ずまいをただして、もう一度つよい声で、
「犬麻呂どの」
 と、よびかけた。こんどは犬麻呂も大きな声で答えた。
「はい!」
 いささかむっとした返事に、綽空がかすかに笑った。いかつい顔がいたずらっ子のように崩れた。
「そなた、いま、なぜ、はい、と応じられた?」
「え? それは、つまり、綽空さまがわたくしの名をくり返しよばれたからでございますよ」
「そこだ」
 と、綽空はうなずいていった。
「わが師のつね日頃おっしゃることの受け売りだが、いまの、はい、が念仏ではないのか」
*1


助けて欲しいと思って唱える念仏は「自力の念仏」である。しかし、法然の言う念仏とはそれではなく、「他力の念仏」だ。阿弥陀さまは、どんな悪人でも常に気にかけている。常に名前をよび、こちらをむけとよびかけている。それに「はい?」と答えてふりかえる返事が「南無阿弥陀仏」だ。

だから、気がついたら何度でも返事をする。「はい? 阿弥陀さま」と。一度よびかけられて、それで迷いがなくなる者は、一度返事をすればそれでよい。しかし、迷いの多い悪人であるわれわれに、阿弥陀さまは何度でもよびかける。だから、何度でも「はい」と愚直に答えればいい。

おれは仏教は好きだが、宗派については勉強不足だ。浄土宗の葬儀であげられる「なーむあみだーぶ、なーむあーみだぶ……」と永遠に続くようなお今日は退屈だと思っていた。「南無阿弥陀仏」と唱えればたちどころに仏が助けてくれる? ずいぶんと都合のいい教えだと思っていたが、そういうことではなかったのだね。

「南無」は、サンスクリット語で、敬意をしめす感嘆詞だという。でもここは「なに? 阿弥陀さま」がなまったもの……ととらえたほうがわかりやすい。ほらほら、こっちですよと、光明の彼方から呼ぶ声がする。どんな現の闇にいても、呼ばれたら振り返ればいい。

アクションあり、恋愛あり。忠範、範宴、綽空、善信と名前をかえ、成長していく親鸞の、幼少期から青年期までのストーリー。いよいよ「親鸞」として生き始める男の次の物語が楽しみである。

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(下) (講談社文庫)

親鸞(下) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

親鸞 完結篇上 (五木寛之「親鸞」)

親鸞 完結篇上 (五木寛之「親鸞」)

親鸞 完結篇下 (五木寛之「親鸞」)

親鸞 完結篇下 (五木寛之「親鸞」)

*1:五木寛之親鸞 下』講談社、2010、p.89-90