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醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔小説〕BUSSHO

その人たちはいつも静かで、白っぽい服を着ていた。思いやりに満ちている。それは美術館を拠点にしたコミュニティーで、そこに加わっている人は小さな子どもを連れた若い親たちが多かった。暗い美術館の中庭で、これから合唱を始めるかのように並び、それぞれがそれぞれの役割を演じていることもある。演劇がいつのまにか始まり、ふいにおどけてみせたりもする。背中から池に落ちてみせる人もいた。そこに集う子どもたちもとても静かで、いつも大人のそばに寄り添っている。はしゃいだり、駆け回ったりはしない。ただそこには、深い思いやりと慈しみがある。

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たしか、その人の名はサエコと言った。年は三十代の後半くらいで、まっすぐな黒髪をワンレングスにして、肩の上で切りそろえている。他の人たちと同じように、いつも白い服を着ていた。そうすると細身の体が、いっそう細く見えた。

彼女の息子はころころと太っていた。短パンをはいてキャップをかぶっていた。そのコミュニティーでは静かな大人たちに囲まれて、おとなしく黙っていた。同じ年頃の色の白い男の子と、地面にしゃがみ込んで遊ぶ。サエコは、この集いが彼の成長に良いと思って、ここへやってきているらしかった。サエコ自身は、自分がこの場になじめていないのではないかといつも思っていた。静かに微笑んでみせようとするが、その笑顔はどこかシニカルだった。通った鼻筋には皺が寄り、口角はいつも片方だけ上がる。

何年かが過ぎて、静かな集まりは静かなままだった。突然大きな声を上げたのは、彼女の息子だった。
「かあさん、ぼくは、こんなところにいたくないんだ!」
彼が声を張り上げても、他の人たちはいつものように静かで、ただその場所に存在しているだけだった。サエコだけが目を泳がせてうろたえた。
「もっと鬼ごっこをしたりとか、泥だらけになったりして遊びたいんだ!」
息子はそう訴えながら、どこか冷めた目をしていた。
「……あなた、いつからそう思っていたの」
「ようちえんにいたころから。もう、ずっとずっと前から。ここにはじめて来たときから」
「そう」

息子は去っていった。その体からは色彩があふれ出していた。どろどろとした汗の臭いも。サエコは去って行く息子の姿を追えなかった。美術館の白いコンクリートのテラスに膝をついた。そこには、海とつながった水流が穏やかに流れていた。

集いの一人が、すっと立ち上がる。髭むくじゃらの顔をしているが、白い衣を着ている。清潔な熊のようだ。彼は厳かにサエコに語りかけた。
「ここは閉ざされた場ではないから、去ることも、戻るという概念もないんだよ。ただゆるかに、人の集う場だから。仏性(ぶっしょう)は誰の中にでもある。君は、仏性ということばを聞いたことがあるかい?」

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膝をつく彼女の横を、巨大な洋梨のようなかたちをしたカボチャが流れてくる。その表面は白く、ところどころがまだらに黄色い。サエコは頭を上げ、目を見開いてそのカボチャを見て、指さした。
「知っています。これが仏性です」
男たちは笑った。ただ静かに笑った。
「ああ、それのことを仏頭(ぶっとう)と呼ぶ文化もあるらしいね。もしかすると、仏性と呼ぶ場合もあるのかもしれない」

テラスの脇には、ガラスの壁に覆われたレストランがあった。白い椅子とテーブルが並んでいる。男はそちらに視線を投げながら言った。
「仏性を体に取り込むには、蕎麦を食べるのがいちばんいいと言うよ」
だからおれたちは、そのレストランで蕎麦を食べることにしたのだ。(了)