〔おすすめ本〕女の艶と欲情 ~ 瀬戸内寂聴『女徳』
さんざん、女としてしたいほうだいしつくして、浮世にあきたら、さっと頭まるめて尼になって、色気ぬけてもまだ、大の男がなんぼうでも奉仕者になってあらわれる。生まれながらの人徳やのうて、これこそ女徳ですわ。*1
- 作者: 瀬戸内寂聴
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1968/05/30
- メディア: 文庫
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以前同じ作者の「色徳」について書いたが、この「女徳」の方が発表されたのは「色徳」より十年ほど早い。
六つの年から女を覚え、七十五歳の今日まで千人を超える女と枕を共にした鮫島六右衛門。彼を主人公とする『色徳』が当世好色男一代記であるなら、『女徳』は好色女一代記。
京は嵯峨野、祗王寺の尼僧・智蓮尼は、かつて千竜という名で世を騒がせた、恋多き芸者だった。そのたぐいまれな美貌の為に、数えきれない程の男たちによって翻弄され、また自らも多くの男たちを恋という煩悩のうちに引き摺り込んできた半生。
三十八で俗世を離れ髪を下し、六十七になった現在でも、そこはかとなく漂う色気は消えない。壮絶な半生は単なる智蓮尼自身の回想ではなく、もう一人の主人公である着物デザイナー・柴岡亮子と、後に「色徳」で主人公となる六右衛門に対する昔語りとして展開される。
智蓮尼の色懺悔のつどいは京の町で数度開かれるが、その合間合間に、今まさに女の盛りを生きる亮子の恋が描かれる。ただの回想記で終わらせない作家の技能に感服だ。
眼に映る景色を文章として写し取るのは、本当に難しいことだ。でも瀬戸内寂聴(晴美)はすらりとやってのけてしまう。
その時、庵の舞台なら上手と呼ぶべき物かげから、人影がすっとあらわれた。亮子の目の前で、紫の骨細の蛇の目の傘が、ふわっと開き、斜めにかかげられた。
その下に少女のように小柄できゃしゃな墨染の尼僧の姿が、すんなりと片足をひいて立っていた。*2
今日は白地の小袖に、文字通りの墨染の衣をつけ、白皮の草履に、しみ一つない足袋のつまを光らせている智蓮尼の姿は、残暑の熱気が渦まいている埃っぽい道路に、白蓮がおかれたような清涼感で、人目をそばだてずにはおかないのだった。
〔中略〕
智蓮尼は眉も動かさず、人々の目の中を、真直顔をあげ、軽やかな裾さばきで、すっすっと歩を運んでいく。
真直のばした背にも、折れそうに細い磨きこまれた首筋にも一分のすきもなかった。
人の視線を受けることが花が水を吸うように、生気と輝きをもたらす昔の習慣が、尼僧の衣の下にまだ残っているように見られた。*3
亮子は、その時はじめて煙草をはさんだ智蓮尼の左の指に目が吸いつけられた。
指の節まで清潔に磨きぬかれたという感じの細い指は、どういう手入れがされているのか、年齢を一番あらわす筈なのに、桜色の皮膚が若々しい。
水からひきあげたばかりのような薄紅色の指の、小指の先に爪がなかった。第一節から切りとられた指先は、そのまま、つんもりとしたアスパラガスの先のようなまるみにまとまり、傷あとももう跡さえとどめていない。*4
開かれた紫の傘の軌跡、残暑の熱気の中を爽やかに歩みゆく姿が目に浮かぶよう。恋する男に信念を見せつけるため、自ら切り落とした小指の傷あとさえ、可愛らしいものとして想像させられる。
それにしても、あまりにモテ過ぎるというのも考えもの。生まれついた美しさに惚れていい寄る男性は、きっと内面まで目を向けてくれない。おれは美人に生まれなくて良かったなあ。
好色一代女の嬌名に違わず、有髪の頃の智蓮尼・たみが、自らの身体から吹き零れる欲望に苛まれる場面がある。恋焦がれる男でなくても燃えてしまう身体、歯止めの効かなくなった煩悩の炎から逃れる唯一の手段が、たみにとっては生きながら世を捨てることだったのかもしれない。