醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

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〔書評〕熱く燃えた想いもいつかはすれ違う。 ~ 向田邦子 「思い出トランプ」

特別な事件が描かれているわけではない。何気ない日常。どこの家にもありそうな風景。それをぱりっと切り取って見える形にする。まるで写真を撮るかのように。

思い出トランプ (新潮文庫)

思い出トランプ (新潮文庫)

向田邦子「思い出トランプ」を読んだ。名前だけは知っていながら、二十代になるまで手を出せなかった作家だ。十代の頃憧れていたのは、華やかな恋。その先にある闇はただただ遠い世界だった。恋に憧れていた頃には、山田詠美村山由佳よしもとばななの小説を読んで恋の入り口を知った。今、恋のその先にあるものを、向田邦子に教えられているように思う。

『思い出トランプ』は直木賞受賞作の「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録した短篇集だ。ひとつ屋根の下に住む男と女、家族の情景。あたりまえの暮らしのなかで生まれた小さな歪。それはとるに足らない事のようでもあり、致命傷のようでもある。

たとえば、「花の名前」。花の名前に疎い、松男との見合い。気の進まない常子を母親が諭す。花の名前なんて知らない男の方が女房は幸せよ。趣味人は殺し文句も上手くて、浮気の心配が耐えないのだから。さて、以下は新潮文庫(2002.11, p.192)からの引用だ。

 母にせきたてられるようにして、次に松男に逢ったとき、彼はひとりごとを言った。
「おれは不具だな」
 常子は、隣りに立つ自分より頭ひとつ大きい男を見上げた。
 子供の頃から、名門校に入ること、主席になることを親にいわれて大きくなった。数字と経済学原論だけが頭にあった。真直ぐ前だけ見て走って来た。
「結婚したら、花を習ってください。ぼくに教えてください」
 常子は、もうすこしで松男に飛びつくところだった。女だてらにはしたないとこらえたが、すぐに松男の筋張った手が常子の手を握りに来た。
 わたしでよかったら、教えてあげる。
 花の名も、魚の名も、野菜の名も。

無骨な男を雅にする喜び。いく年月が過ぎ、松男は職場の誰よりも花の名前に詳しくなった。けれど、松男と常子の間にはいつの間にか大きなずれができている。

 物の名前を教えた、役に立ったと得意になっていたのは思い上がりだった。昔は、たしかに肥料をやった覚えもあるが、若木は気がつかないうちに大木になっていた。
 花の名前。それがどうした。
 女の名前。それがどうした。
 夫の背中は、そう言っていた。
 女の物差は二十五年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる。*1

おれにはまだよくわからない。男と女の目盛りは、いつしかずれてしまうものなのか。今、同じものを見て同じ感動を抱いても、月日が経つうちに離れていってしまうのか。男女の関係に限った話ではないかもしれないけれど、恋の火を燃やしあった男と女だからこそ、如実に見えてくるずれなのかもしれない。

*1: p.199-200