〔日記〕 故郷は遠く、遠い。ただ草津を歩くことにする。
一月十一日 曇つて晴れる、雪の後のなごやかさ。
種田山頭火 行乞記 三八九日記
あんまり寒いから一杯ひつかける、流行感冒にでもかゝつてはつまらないから、といふのはやつぱり嘘だ、酒好きは何のかのといつては飲む、まあ、飲める間に飲んでおくがよからう、飲みたくても飲めない時節があるし、飲めても飲めない時節がある。……
草津から帰ってきたら、ぐったりとしている。一瞬通り過ぎた故郷には何故だか懐かしさの欠片も感じない。そこはただ、昔からの友人たちが住んでいるだけの街になった。遥か遠い、どこか遠い街にやってきたようだ。
草津の「子供お断り」の頑固そうな居酒屋では、地元のおにいさんが遅くに暖簾をくぐって「今日はマグロ、ある?」と聞いていた。少し凍ったマグロがご馳走であった故郷。なぜ大人はあんなものを有難がって食べるんだろう。不思議で仕方なかった。シャーベットのようなマグロのブツ、味のしないイカ刺し。味噌がベースのぼやけた味の煮込み料理。そうだ、おれはそんな郷土の食い物が好きではなかった。食べることのが嫌いな子供に育っていた。食事をするくらいなら、本を読んでいたかった。
草津はたぶん初めてではないはずなのだが、いつ来たのかは覚えていない。「熱帯園へイグアナを見に行く」と言ったら、連れが誰もついてこなかったので、仕方なく独りで湯けむりのたつ街をぶらぶらと歩く。
続きを読む
群馬県の草津町には、暖簾をくぐって入る「温泉図書館」がある
草津の町にはしんしんと雪が降っていた。部屋の中にいても硫黄の臭いがしてくる。空気中に漂う温泉成分のせいで、テレビなどの電化製品は一年程で壊れてしまうのだそうだ。クレジットカードの金色の部分も、空気に触れるうちに黒くくすんで使えなくなる。
お湯につけたままにすると、五寸釘は9日で針金になる。草津町立温泉図書館にて。
金属を溶かしてしまう恐るべき性質の湯は、目の病にはいいようで、町には眼科が無い。空気に触れているうちに殺菌されて治ってしまうらしい。温泉で目を洗うのはいいが、口に含んではいけない。歯が融けてしまうからだ。
そんな町の図書館が新しくなった。バスターミナルの3階にあるのは、その名も「温泉図書館」だ。
訪れた人はまるで風呂にでも入りに行くように暖簾をくぐる。
これまではすぐ隣にある、役場の建物の中にあったそうだが、そちらはあまりにも狭かった。そのためもともとバスターミナルにあった「温泉資料館」の展示物をコンパクトにまとめ、こちらに図書館を移設した。広くなった館内では、ぶらりと訪れた観光客と、地元の中学生たちが並んで本をめくっている。
閲覧席には、ひとつの席にコンセントの口がなんと2つも。飲み物持ち込み可。
温泉街を眺めながら、のんびりできる席もある。
町民だけでなく、訪れたひとはみな本を借りられる。一般書はもちろん、ハンセン病関連の資料(草津には療養所がある)、古い町のパンフレットや、地域に咲く花を撮り溜めたオリジナルの資料もある。もちろん、温泉関係の本もたくさん。
木製の書架は、古い図書館からそのまま持ってきたそうだ。
地元の人が行く秘湯を案内してもらった。これも図書館のレファレンス(調査相談)ですから、と笑う。語尾に「~でサ、~がサ、」と「サ」をつけて軽快に話す口調は、懐かしい故郷の話し方だ。
しっぽりと、夜が更けていく。