醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔日記〕 サイン

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  • ま夜中、
  • 熱いものを
  • すゝる
  • 山頭火

 一月六日 雨、何といふ薄気味の悪い暖ヌクさだらう、そして何といふ陰欝な空模様だらう。
次郎さんに手紙を書いた、――その心中を察して余りある事、感傷的になつては詰らない事、気持転換策として禅の本を読まれたい事、一度来訪ありたき事、等、等。

種田山頭火 行乞記 三八九日記

あんまり馴染みのない呑み屋に行く。独りで呑んでいると、話しかけられて面倒なことがある。

「ようよう、ねえちゃん、なんの仕事してんの?」
「あ、小説家です」
「……小説家!」

オッサンの対応が急に丁寧になる。
「きゃー、すごい! サインしてください!」
連れのおねえさんがいそいそと手帳を取り出す。名前も知らない人のサインなんてもらって嬉しいかねえ。明日にはきっと、サインを貰ったことも憶えてないのかもしれないなと思いながら、手帳の余白にそれっぽく書き込む。

〔日記〕此岸

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  • 灯が一つあつて
  • 別れてゆく
  • 山頭火

 一月五日 霧が深い、そしてナマ温かい、だん/\晴れた。
朝湯へはいる、私に許された唯一の贅沢だ、日本人は入浴好きだが、それは保健のためでもあり、享楽でもある、殊に朝湯は趣味である、三銭の報償としては、入浴は私に有難過ぎるほどの物を与へてくれる。

種田山頭火 行乞記 三八九日記

石ころになったような日がある。買い物をしようと店に入っても、まったく店員に話しかけられない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」そんな挨拶さえもされない。すれ違う人が派手にぶつかってくる。でも、ぶつかったことに気が付かなかったように、あたりまえに通り過ぎていく。そんな日は、おれの姿は見えているんだろうか、おれはこの世のものならざる者になっているんじゃなかろうか、なんて考えたりする。取るに足らない我が歩いている。

そんな日の黄昏時は、やたらと不安に苛まれる。通りを幾人も人が歩いているのに、その姿は確かに視えているというのに、此岸からは誰もが消えてしまったかのようだ。

夜が来る。いつものように店に入り酒を干せば、おれの輪郭はまたはっきりとしてくる。