醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

作家の文体 ~ 江國香織 「号泣する準備はできていた」

なんでもない日常。そして、そこにさす暗い影。今にも爆発しそう。でも、しない。いっそ爆発してしまえば気が楽なのに、しない。決壊ぎりぎりのダムのように。

そんな日常は小説の中だけの絵空事じゃない。おそらく、誰の一日にも潜んでいること。普段目を背けている事柄にスポットライトが当てられるから、読んでいるこちら側は苦しい。決壊寸前の自分の姿が描かれているようで。

日常にひそむ闇。それだけを書ききった短篇集だったら救いがない。暗い気持ちになって読み終わるだけ。

けれど江國香織はそうさせない。闇に終着しようとする物語もあれば、かすかに光を見せて幕を閉じるものもある。例えば、「どこでもない場所」。繰り返される「肉欲に溺れた?」という質問が無邪気で、ほっとする。

号泣する準備はできていた

号泣する準備はできていた

自分で小説を書こうとすると、好きな作家の文体に引き摺られる。江國香織だけに許された文体が、いつの間にか染み付いてしまっている。体言止めで終わる一文など。

しかし驚いたのは表題作「号泣する準備はできていた」の中に書かれた、長い一文だ。江國香織の文体は好きだから、知り尽くした気分でいたのに。保坂和志の書くような長い文を、江國香織の作品の中で始めてみつけた。

あんなふうに嬉しいまま甘いまま、笑いながら愛おしみながらどこまでも止まらない気持ちで、窓の外で日ざし移ろい、部屋の中がゆっくり暗くなっていくことにさえ気づかず、自分の手も足も目も唇も胴体も私とは別の生き物みたいに勝手にふるまい、もっともっともっともっととそれぞれがもう嬉々として隆志の髪や頬や首や胸や腰や膝や腿やふくらはぎや足首や手の指や腕やなんかに触れたがり、からまりたがり、隆志の肌の芳しい匂いや、温かさや、そこに隆志が存在しているというただそれだけのことが、ぬるいやさしい水になり日ざしになりして私にふり注ぎ、なんてすてきなんてすてきなんてすてきなんてすてき、と、ほとんど溌剌といっていいような様子と心持ちで自分の身体が弾むのにも驚き、かすかな、でも愉しそうな笑い声がさっきからずっと続いている、と気づいて耳を澄まそうとして、その途端にそれが自分の喉からでたものであることを知り、今度ははっきりと声をたてて笑ってしまう。*1

以上で一文。それはまるで終りのないまじわりのように。

*1:江國香織「号泣する準備はできていた」『号泣する準備はできていた』新潮社 2003.12 p.218