醒メテ猶ヲ彷徨フ海|野原海明のWeb文芸誌

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔日記〕此岸

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  • 灯が一つあつて
  • 別れてゆく
  • 山頭火

 一月五日 霧が深い、そしてナマ温かい、だん/\晴れた。
朝湯へはいる、私に許された唯一の贅沢だ、日本人は入浴好きだが、それは保健のためでもあり、享楽でもある、殊に朝湯は趣味である、三銭の報償としては、入浴は私に有難過ぎるほどの物を与へてくれる。

種田山頭火 行乞記 三八九日記

石ころになったような日がある。買い物をしようと店に入っても、まったく店員に話しかけられない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」そんな挨拶さえもされない。すれ違う人が派手にぶつかってくる。でも、ぶつかったことに気が付かなかったように、あたりまえに通り過ぎていく。そんな日は、おれの姿は見えているんだろうか、おれはこの世のものならざる者になっているんじゃなかろうか、なんて考えたりする。取るに足らない我が歩いている。

そんな日の黄昏時は、やたらと不安に苛まれる。通りを幾人も人が歩いているのに、その姿は確かに視えているというのに、此岸からは誰もが消えてしまったかのようだ。

夜が来る。いつものように店に入り酒を干せば、おれの輪郭はまたはっきりとしてくる。

〔日記〕 「素顔美人を目指しているんですか?」

 一月四日 曇、時雨、市中へ、泥濘の感覚!
やうやく平静をとりもどした、誰も来ない一人の一日だつた。
米と塩――それだけ与へられたら十分だ、水だけは飲まうと思へば、いつだつて飲めるのだが。

種田山頭火 行乞記 三八九日記

ジロウ(ダンナ)と出かける準備をしていて、コートを着て鞄を持ったところで、
「あ、化粧してなかった!」
と気づいたら、
「いつも化粧してたっけ?」
と笑われた。

十九才の時がいちばん化粧が濃かった。ビューラーもアイライナーもマスカラも、ファンデーションもアイシャドウもチークも持っていた。ああ、あと、眉を茶色く染めるやつも。一度化粧に慣れてしまうと、何かの工程を抜かして家を出ることができなくなる。下着のまま表に出るような、ふわふわとした無防備な感じ。

でも、毎朝そんなに時間を掛けてあらゆるものを塗りたくって、日中は毛穴が塞がれて不快だし、夜は夜でポイントメイクリムーバーだのなんだので時間を掛けて落として……時間の無駄のような気がしてきた。旅行に行くのにもやたらポーチが嵩張って不自由だ。男と寝るのに素顔を見せられないなんていうのも、まったく本末転倒だ。

そう思って、真紅の口紅だけ残して、あとはみんな捨ててしまった。三十路を過ぎたおれの化粧は、口紅を付けて多少眉をひくだけである。

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黄昏エレジーにて

「素顔美人を目指しているんですか?」
と突然、立ち飲み屋で初めて逢ったおねえさんに聞かれる。
「素顔美人……は目指してないけど(もともとビジンだし)、美肌の秘訣は毎日三合以上の日本酒ですよ」
と、にっこり答える。