醒メテ猶ヲ彷徨フ海

野原海明(のはら みあ)のWeb文芸誌

〔書評〕自分の心のなかが、いちばん遠い。~ 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』

主人公の多田啓介は、まほろ市で細々と「多田便利軒」という便利屋を営んでいる。多田便利「屋」ではなく、ラーメン屋みたいに「軒」にしたのは、行天春彦いわく、

語呂が悪いから? 『便利屋多田』だと、だと、やっぱり『便利屋タダ』みたいだしね*1

ということらしいが、多田はなんとも言わない。たぶんまあ、そうなんだろう。

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)

 まほろ市は東京の南西部に、神奈川へ突き出すような形で存在する。東京の区部から遊びにきた友人は、まほろ市に都知事選のポスターが貼ってあるのを見て、「まほろって東京だったのか!」と驚く。*2

まほろ市という架空の街は、おそらくは町田市がモデルだ。小田急ならぬ「私鉄箱根急行線」、通称「ハコキュー」が走っている。幻の街「まほろ市」は、三浦しをんのこのシリーズ以外にも、祥伝社文庫から刊行されている推理小説の舞台として度々登場しているらしい。

多田のもとに転がり込んできた行天春彦は、高校時代の同級生だ。

 行天の成績はすこぶるよく、見た目も悪くなかったから、他校の女子生徒が、行天目当てに校門付近にたむろっているほどだった。しかし行天は校内では、むしろ変人として有名だった。言葉を発さなかったのだ。*3

その行天がやたらと、べらべらしゃべる。しゃべりすぎてうるさいくらいだ。正月だというのに、ジーンズの足元は素足で茶色の健康サンダル。帰る場所を持たない人間の出で立ちである。すっかり多田のもとに居付いた行天は、律儀にも便利屋の仕事を手伝う。が、あんまり役に立たない。

治安の悪い東京の郊外。インスタントラーメンが主食のやさぐれたバツイチの多田は、過去に幾つもの罪悪感を抱えて生きている。しかし、自分のずるい部分を見つめられるほど正直な多田が持つ闇は、行天のそれに比べるとやさしいものだろう。狂気のような憎しみ。感情の抜け落ちた暴力。しかし変人めいた言動が、行天の魅力でもある。

行天をとどめているのは、真っ直ぐな多田なのかもしれない。放っておけば落ちてきそうな深い闇の淵で、行天の汚れた服の裾を掴んで引き止めているのは。

物語の冒頭で、曽根田のばあちゃんが多田に予言する。多田は、ばあちゃんが入院する病室へ、便利屋の仕事として、ばあちゃんの息子を装って見舞いに行っている。

「あとはまあ、旅をしたり、泣いたり笑ったりさ」
「旅? どこへだろう」
「とてもとても遠い場所。自分の心のなかぐらい遠い」*4

多田はたどり着いたのだろうか。自分の心のなかぐらい遠い、行天の闇のなかへ。

*1:三浦しをんまほろ駅前多田便利軒』文藝春秋、2006.07、p.26

*2:同上、p.57

*3:同上、p.23

*4:同上、p.10